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【book】「つぶさにミルフィーユ」というエッセイ本を読んでみたら自分も書いてみたくなった話

投稿日:2月 1, 2018 更新日:

本日もbottleshipをご覧いただきありがとうございます。しょういちろうです。
今回は以下のように書いてみようと思う。
壱:どのようにこの本と出会ったのか
弐:この本はどういう本なのか。
参:この本を読んで自分もエッセイを書いてみたくなった話。

「つぶさにミルフィーユ」を手に取るまでの話

2017年の年末、これを書いているのが2018年の2月2日なので一ヶ月ほど前のこと。
東京に上京してきて約4年が経ったが正月は毎度母方の実家である奈良県に帰省している。つまるところ祖母の家である。東京にそれぞれ住まう自分と妹、それから長野に住む父母弟が祖母の家に帰省するのだが今年から新メンバーが加入したのでご報告する。

犬である。実家が犬を飼い始めたのだけれど置いていけないので正月に連れて帰ることになった。
困ったことに祖母がこの歳で犬と付き合うのはしんどいと言う。聞いたときは自分も犬と暮らしたことがあるのに薄情だなあとも思ったのだが僕の祖母はもう歳はそれなりなのに「私は年寄りが好きじゃないの。」という尖った女性なので仕方ない。この話はかみ砕いても面白そうなのだが僕はそんな祖母をとても好いているので良しとする。

結果犬はドッグホテルなるものに預けることとなった、僕がどうしても会ってみたい頼んだので奈良のドッグホテルに。行き場に困った犬も多いというニュースを以前目にしたがホテルに泊まる犬もいるそうだ。これまた事情が人間みたいだなと思う。他人事で悪い。犬にあってこれはかわいいなと楽しみ倒したところで犬をドッグホテルのある大き目のショッピングセンターに連れて行った。預けた後も父母が手続きをするというのであたりをふらつくことにする。大体子供を3人も育ててやっと2人目が家を出たというのに今度は犬を育てようだなんてよほど僕がよく育ったことに満足しているらしい。

ふらついていた先に書店があったので本を眺める。本屋をふらつくのは案外嫌いじゃない。その時期のホットな話題だとか普段自分の興味の向かない話題の本が溢れていて刺激になる。帰ろうとするとショッピングセンターに折角来たので何か欲しいものはないかと母が聞いてくれる。キャノンのフルサイズが欲しいですなんて口が裂けても言えないので「大丈夫、ありがとう。」と答える。(口を五分裂きくらいにされた言ってしまうだろう。)答えた後に考えてみると自分もこのブログをはじめて文章を不特定多数に読んでもらわんとしているのだから本になるくらいの人の他人の文章には触れてもいいかもしれないと思った。

そんな時に目についたのがこの「つぶさにミルフィーユ」である。手に取った理由は表紙のデザインがかわいらしかったことと「つぶさにミルフィーユ」という題にどうしようもなく惹かれたから。どんな内容の本だかは知らないがどこの世界に「つぶさに」と「ミルフィーユ」を一緒に住ませる人物がいるのだと衝撃が走った。走ったというのは僕の分身が高速で全世界の住民にやってみたことある?と聞いて走り回ってみたところだれもイエスとは言わなかったということ。もしあなたに彼が彼女が運命の人だわと言える人がいるならば「つぶさに」ちゃんにとっては「ミルフィーユ」君は運命の人であったのではないか?僕は第三者であるからその答えは知りえないがそうであってほしいと思う。

「つぶさにミルフィーユ」とはどんなお菓子なのか

ミルフィーユを食べた経験のある人はいるかもしれないが「つぶさにミルフィーユ」を食べたことがある人は少なくはないとも多くはないと思うので紹介しようと思う。だいたいこれが本記事の核である。

筆者は森博嗣という作家。代表作には「すべてがFになる」(講談社)などがある。これは僕も聞いたことがあったが読んだことはない。書籍好きからしたら読んだことないのかと思われるならこれは書籍好き界隈ではその程度の新参者の書く文章だと思ってもらって構わない。

森博嗣の書くなかで「クリームシリーズ」というエッセイ連作の六作目にあたる。過去作の題を並べてみる。「つぶやきのクリーム」「つぼやきのテリーヌ」「つぼねのカントリーヌ」「ツンドラモンスーン」「つぼみ茸ムース」そして本六作目に「つぶさにミルフィーユ」がある。どうやら「つ」から始まる1ワードと「-」こののばすそれとを掛け合わせて毎度題を作り上げているようだ。なんにせよ結果この「つぶさにミルフィーユ」という題は僕の衝撃君を走らせたのでありがたいことだ。森博嗣はノンフィクションの「新書」というものを書く人らしい。僕はこの辺に詳しくない。その中でこの「クリームシリーズ」というエッセイ連作は毎年年末に出版されるらしい。僕が年末に偶然「つぶさにミルフィーユ」を手にしたのはこの習慣をわけとわけだ。見開き2ページごとにテーマがまとまっている。合計100のテーマからなりその内容は単純計算で200ページとなる。目次やら前書きをあわせるともう少しある。エッセイのテーマは多岐にわたるがおそらく同じ人物が書いているだろうと僕は思った。(別にゴーストライターとかいう幽霊を考えたこともないが。)彼について僕の分かったことは小説を書いている人で趣味の一つに庭園鉄道があること。彼について僕が思ったことは人類を半分に分けたらひねくれている側の人間だろうと思った。別に悪口じゃあない。

僕は買ってよかったと思うか?この本が何が良いか?誰かに薦めようと思うか?

僕は買ってよかったと思っている。まあそうでなければ他人の文章のまとまりを批評する(それも自分より名の知れた人の)なんて変わった趣味に時間は費やさないだろう。この本の良いところは先に話した表紙のデザインと表紙が惹きつけるものであることに加えてやはりエッセイという形式だと言える。見開き2ページにまとまったエッセイはかなり読みやすい。「私は分厚いハリーポッターでさえ一晩で読んでしまう。」という僕からしたら変わりものもいるかもしれないが僕はあまり長時間続けて本と向き合うのは得意ではない。1~2ページ読めば他のことをしたくなる。ただこのエッセイ本はそれを容易に許す。コートのポケットにさえ入ってしまうので持ち歩いて読んでみたりした。twitterだとかinstagramだとか普段眺めている代わりにこれをしてみた。面白いことが分かった。電車ではスマホを眺めている人より本を開いて読んでいる人のほうが変わって見えるということだ。これは別に変だとか言うわけじゃなく単に少ないということ。世の中では少ないほうは変わっていると言われやすいそうなのでそれにのっかてみた。さて、この行為の何が良いかというとスマホの電池が減らないことだ。スマホばかり見てスマホの電池がすぐなくなってしまうことが減った。事実この一ヶ月はスマートフォンの通信量は少なかったらしい。本は電池が減らなくていいなんて思ったのだが電池が減るほうが珍しい。僕はこのエッセイ本を他人に薦めてみてよいと思った。理由は面白いと思ったから。もちろん僕以外の人がこの本を読んでも面白いと思うかもわからないのだが、違う点に面白さを見出してみた。このエッセイ本というのは実に作者の体験に基づくことが大きい、ノンフィクションとは異なるだろう。それはまるで普段友人の最近起きた何気ない話と同じ内容を知らない人から聞くようなものだと僕は思った。残念ながらこれでは薦められていない。ただ赤の他人のそういった話を聞くのは面白かった。え、それ俺も思ってたという内容もあれば知ったこっちゃないという内容もあったが所謂非日常に近い経験であったと言える。想像してみよう初めて会った人と小一時間ふたりで会話をする。困難だと思う人は多かろう、それに近しく一方的に話してくれるのがこのエッセイ本ではと思う。やはり薦められていないだろうか。この話からすると森博嗣にだけはこのエッセイを薦められない。当たり前か。

自分もエッセイを書いてみたくなった話

自分もエッセイを書いてみたくなった。それはもちろんアウトプットとして誰かに見られる前提でということ。なぜエッセイを書いてみたくなったかというと他人のエッセイを読んで面白いと思ったからだ。もちろん僕が面白いと思ったエッセイを他の人が読んでも面白いとも思わないかもしれないし、僕のエッセイが誰かに面白いと思われるかはわからないが僕はこのエッセイというものを好きだと思ったので作ってみようと思う。自分の好きなものは世界に多いほうがいい気がする。

エッセイを書くのはブログに書こうと思っている。ブログは長く続ける予定で書いているので方針は考えなければならない。できればブログには情報性を持っていてほしいと思う。とりわけ専門性のある情報が集まっていればなおよいと思う。そうなればそこはある情報を求める人にとってそのブログにいくことである情報に関する情報が手に入りやすいという信頼感が産まれる。それは大いに価値があることだと思う。

エッセイに専門性を持たせることは難しいだろう。なにしろ筆者の体験は365日24時間あらゆるところからやってくる。それに専門性を持たせるならば人生だろうか?もはや専門性とは何処へ行ったか。その結果一種の諦めか戦略的方針変更か、エッセイを取り入れるためには考えをまとめる必要性がでてくる。たどりついた先に待っていたのはは「核と大小」である。

これは待っていたといったけれども実は以前から僕の周りをウロウロしていた。○○ブログと僕の周りでは特にブログを書くことが流行っている周りでは言ったりする。これは自分で宣言することもあれば他人に名付けられることもある。どちらかというと後者のほうがやはり自分より他人のほうが多いので○○ブログである確証は高くなるのではないか?しかし前者には自分が能動的に意図すれば実現可能でありその結果後者をも引き寄せうる。つまり自分が僕のブログは○○ブログですと言えばよっぽど違わなければ○○ブログたりうる。この僕の周りに存在する○○ブログは実は○○についてしか書かないことはよっぽど少ない。ただ数多くアウトプットしてきた記事のなかで○○の占める割合は多くその筆者の好んで薦めることであるのだ。それは言うなれば○○なブログの核となる。僕がエッセイをブログに付け足したとしてもこの○○という核があれば僕のブログは○○ブログになりうる。困ったことにこの○○は現在模索中なのでなあんだと肩透かしを食らうことになる。

大小とは記事の大きさである。ブログというのは一種のアウトプットだ。誰かに見られればいいと思っていてそれは良く思われればなお良いだろうと思う。そのうえでブログは続けることは大いに重要であることが分かった。これは実際に続けている人を見ているとわかる。加えてその頻度というのも重要だとわかった。頻度が高ければ高いほどブログの価値は高まりやすい。その際記事のボリュームの理想はなんだろうか?そりゃあでかい記事を何発も打てたらいいだろうか?そうなればそれはそれだけブログを書くということで他の何かをしないことになる。それはあまり理想とは言えなそうだ。でかい記事は核であればいいと思う。それ以外は小さくても良い。その大小はむしろこの頻度問題を解決に導くのではないか?この考えは他でも応用できそうだ。集中力なんてものも見えないのだがこれも大小があって良さそうだ。愛情は大きいほうがいいだろうか?行為を考えれば今日は近場で記念日は盛大になんて大小があってもいいかもしれない。

そういえばエッセイの1テーマになりそうなものを最近メモするのだがその一つ目を友人に話してみた。これがちっとも共感を抱かれないのでおもしろい。どうだろうか、一つ目のテーマが何か気になったであろうか?

今日は雪が降っているから転ばないように。風邪をひかないように。今日も読んでくれてありがとう。

 







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